ピアノ再開日記

子どものころ習ったピアノを50歳で再開しました。記録のためのブログです。

細く長い5年間-私のピアノ歴5

小3の終わりから小6まで、近所に住むO先生の教室で楽しくピアノを習っていたのですが、両親の判断で辞めることになりました。

理由の一つとして、両親が私のピアノへの取り組み方に問題を感じていた節があります。

このころ私は速弾きが大好きで、情緒も何もない演奏をしていました。

O先生は「趣味で習うなら楽しめればよい」という考え方だったので、強く矯正されることはありませんでした。

いっぽう両親は、「せっかくピアノが好きなら、もう少しうまくなってほしい」と思っていたようです。

 

中学生になって間もないころ、新しくU先生にピアノを習い始めました。

U先生は上品ながらなかなか辛辣で、私のピアノを聴いて「工事現場みたい」と言いました。

U先生の教室には5年ほど通い、ハノン、ソナタアルバム、ツェルニー、インベンションを少しずつ進めながら、あわせてレパートリーになりそうな曲を勉強していきました。

 

中学から高校に上がると、通学時間が片道7分から1時間10分に伸びました。

母から「部活かピアノか、どちらかにしないと無理じゃない?」と言われ、確かにそうだと思い、迷わずピアノを選びました。

しかし、高校時代はあまり身を入れて練習しませんでした。

それよりもクラシックや洋楽のレコードを聴いたり、N響定期演奏会の学生会員になるなど、聴くことに夢中になっていました。

 

ポリー二、ブーニンのコンサートに出かけたのも高校時代です。

ポリー二の演奏はあまりに端正で、聴き終わったあと言葉を失いました。

ブーニンショパンコンクールに優勝した直後でチケット争奪戦が大変でした。

母に付き合ってもらい、チケットぴあのお店の前に朝6時ごろから並んだのを覚えています。

すでに人が来ており、私は2番目でした。

当時はインターネットがなかったため、チケットが欲しければ直接店舗に行くか、電話で購入するしかありませんでした。

電話だと絶対通じないと判断し、並ぶほうを選んだのです。

 

高校2年の終わりごろ、大学入試のためピアノを休むことにしました。

U先生から「最後に何を弾きたい?」と訊かれ、「幻想即興曲」と答えました。

以前通っていたO先生の教室で、憧れの先輩だったIさんが弾いていた曲です。

幻想即興曲を仕上げて満足し、私の現役時代は終わりました。

4歳から17歳まで、13年間のピアノ人生でした。

がちゃ弾き時代-私のピアノ歴4

小学3年生の終わりごろ、母が新しい先生を見つけてきました。

今までの先生と違い、入門の段階で面接があるといいます。

「落とされたらどうしよう」と思い、怖くなりました。

 

当日先生のお宅に伺うと、大きな部屋にグランドピアノがありました。

そしてもう1台、ピアノによく似た形の見慣れない楽器が置かれていました。

あとでわかったことですが、これはチェンバロでした。

O先生はヴィヴァルディの研究をされていたため、研究のためにチェンバロ保有されていたのでしょう。

 

面接の詳しい様子は覚えていません。

何か弾くように言われ、ソナチネアルバムの1曲目を弾いた記憶があります。

結果として入門を許され、この後O先生の教室に6年生の終わりごろまでお世話になりました。

これもあとでわかったことですが、入門時の面接は実は形だけで、特に選考はしていなかったそうです。

 

O先生に習った3年間は印象が強く、思い出がたくさんあります。

グランドピアノでレッスンを受けるようになったこと。アップライトとのタッチの違いを初めて意識しました。

ソルフェージュの聴音をやったこと。独特な音譜の描き方を覚えました。

あと、発表会がユニークで、第一部は普通のソロの演奏、第二部で合奏や自作の変奏曲を披露するなどの趣向がありました。

発表会の変奏曲づくりでは採譜もしました。秋の発表会に向けて、小5の夏休みに曲を作っていた記憶があります。

たまに”勉強会”があり、入門の日から気になっていたチェンバロの音を聴く機会もありました。

 

O先生のお弟子さんは才能豊かな人が多く、結果的に音楽を仕事にした方も何人かいました。

私は当時高校生だったIさんの大ファンでした。Iさんはのちに、藝大に進まれたと聞いています。
Iさんが発表会で弾いたショパンの幻想即興曲スケルツォ2番は、そのまま私の憧れの曲になりました。

また、誰が弾いたか覚えていませんが、発表会でバッハのイタリア協奏曲(第1楽章、第3楽章)を聴き、メロディが頭にこびりついて離れなくなりました。

いろいろな曲を聴けるのも発表会の楽しみの一つでした。

 

楽しく通っていたのですが、小学校卒業後、また教室を変わることになりました。

同じ時期に数人辞めた人がいたので、なにか大人の事情があったのかもしれません。

私自身はO先生の教室に不満はなかったので、内心不本意でした。

しかし、このときはピアノに口を出したことのなかった父まで「辞めなさい」と言い始め、抵抗することができませんでした。

先生を転々とするー私のピアノ歴3

小2の夏、父が転勤になり、大阪から東京へ引っ越しました。

4歳からお世話になったY先生とお別れし、転居先では母が新たに見つけてくれたS先生から習うことになりました。

教材は引き続きブルグミュラーでしたが、先生にお願いして「かっこうワルツ」をみてもらった記憶があります。どこかで耳にして、弾いてみたくなったのです。

先生のほうからはディアベリの連弾曲を提案され、レッスン時に連弾というものを初めて経験しました。

 

S先生は美人で優しく、流れるような演奏をされる方でした。

私のピアノはいまも昔も情感に欠けるところがありますが、S先生から「そこは、こーんなふうに歌いましょう」と身振り付きの美しい声で言われると、不器用ながら一生懸命抑揚をつけていたようです。

後年母が「S先生に習っていたころが一番きれいに弾けていた」と話していたので、S先生に長く習えたらもっと上手くなっていたのかもしれません。

 

東京の家は実は仮住まいで、8か月後、新築していた神奈川の戸建てに転居することになりました。

できれば引き続きS先生に習いたかったのですが、転居先は遠すぎるということで、泣く泣くお別れとなりました。

 

神奈川で最初に習ったA先生は優しくてわりと好きでしたが、なぜか母のお気に召さず、3,4か月経ったところで辞めさせられてしまいました。

次についたK先生は厳しく、よく語気荒く注意され、手をひっぱたかれました。

先生のお宅に私を送迎しつつレッスンに同席していた母が、「いくらなんでも叩きすぎ」と怒り、これまた半年程度で辞めることになりました。

 

いまはインターネットが普及しているので、ピアノの先生を探しやすく、コンタクトもとりやすくなっています。

しかし、当時そんなものはありませんでした。

母はA先生やK先生の教室を、役所の掲示板で見つけていたようです。

 

肝心のピアノのほうは、ブルグミュラーを終えてソナチネアルバムに進んでいました。

小3の終わりごろのはなしです。

初期につかった教材ー私のピアノ歴2

最初に使った教材は『幼児のためのバイエル』でした。

この本はもう売られていないようです。

五線も音譜も大きく印刷され、上下2巻に分かれていました。

バイエルには、意外にきれいなメロディがたくさんあります。

両親から「〇番弾いて」とリクエストされると、そのたびに喜んで弾いていました。

 

バイエルを終えると、『ピアノの練習ABC』と『ブルグミュラー25の練習曲』を弾き始めました。

『ABC』が終わると、『ピアノの練習ラジリテー』と『ピアノのテクニック』も勉強しました。

このころ2歳年下の弟がピアノを習い始めたのですが、弟は『幼児のためのバイエル』の”幼児”が気にいらないと言い、上巻を終えたあと『メトードローズ』に進んでいました。

『メトードローズ』というタイトルがかっこよく思え、「私もやりたかったなあ」とうらやましく感じたのを覚えています。

 

ブルグミュラーがある程度進むと、バッハの小品集も弾くようになりました。

「ピアノって楽しいかも知れない」と思いはじめたのはこのころです。

私は小学校に上がっていました。

ピアノを始めたばかりのころー私のピアノ歴1

ピアノを始めたのは4歳のとき、昭和49年でした。

そのころ両親、2歳年下の弟とともに、分譲されたばかりの大阪の団地に住んでいました。

団地の住民はファミリー層が中心で、幼児がそこらじゅうに溢れているような環境です。

ピアノを売り込むには格好の市場だったのでしょう。

ある日浜松からピアノメーカーの営業さんがやってきて、「お子さんにピアノを習わせませんか」と一軒一軒に声をかけたようなのです。

 

このとき両親が私に「ピアノ習いたい?」と尋ねたところ、「習いたい」と答えたのだそうですが、もちろん記憶はありません。

そもそも意味が分かって「習いたい」と答えたかどうかも不明です。

しかし、そんな幼児の言葉を真に受けて、両親はアップライトピアノを買ってくれました。当時の父の給料の3か月分くらいの値段だったそうです。

 

最初についた先生は、音大を出たばかりのY先生(女性)でした。

決まった曜日の決まった時間に、家までレッスンしに来てくれました。

大阪弁の口の悪い先生で、下手に弾くと手をはたかれました。

同年代の方と話すとピアノの先生に手をはたかれたエピソードが続出するので、当時はそれが普通だったのでしょう。

「先生が怖くて嫌だった」という声をよく聞きますが、私は手をはたかれても平気でした。

もちろん「えー!」とは思ったのですが、それで落ち込むこともなく、先生やピアノを嫌いになることもありませんでした。

 

平凡な子どもだったので、自分からピアノに向かうことはあまりなかったようです。

よく母から「1日30分は弾きなさい」と言われ、「はーい」と返事をしてピアノに向かっていました。

自分から進んで練習するほど熱心ではなかったものの、毎日弾くことが苦痛でもなかったのでしょう。

そんな生ぬるい感じで、私のピアノ歴はスタートしました。

30年ぶりのピアノ再開

2020年の7月。昼休みに突然同僚から「ピアノ弾けます?」と訊かれました。

職場の古いアップライトピアノを一緒に弾かないか、というお誘いでした。

 

普段ならたぶん弾かなかったと思います。

4歳から高校2年までピアノを習っていましたが、ブランクが30年を超え、指が全く動かなくなっていたからです。

でも当時はコロナ禍でした。

外出は自粛ムード、職場でも飲み会はご法度、昼休みにも黙食が推奨されていました。

娯楽やコミュニケーションに飢えていたのでしょう。

ついふらふらと同僚について行き、記憶に残っていたソナチネアルバムの1番と、ショパンのワルツ7番(Op.64-2)を弾きました。

久しぶりに弾いたピアノからは、楽器ではないようなひどい音がしました。

しかしそこで何かのスイッチが入り、無性にピアノを弾きたくなりました。

 

時間と費用の捻出方法を一瞬考えましたが、翌月にはレッスンを再開し、その後3年経過したところで自宅に電子ピアノを購入し、今(2024年2月)に至ります。

ピアノ関係の支出は「無駄の極み」だと自覚していますが、ピアノを再開できてラッキーだったと思っています。