小学3年生の終わりごろ、母が新しい先生を見つけてきました。
今までの先生と違い、入門の段階で面接があるといいます。
「落とされたらどうしよう」と思い、怖くなりました。
当日先生のお宅に伺うと、大きな部屋にグランドピアノがありました。
そしてもう1台、ピアノによく似た形の見慣れない楽器が置かれていました。
あとでわかったことですが、これはチェンバロでした。
O先生はヴィヴァルディの研究をされていたため、研究のためにチェンバロを保有されていたのでしょう。
面接の詳しい様子は覚えていません。
何か弾くように言われ、ソナチネアルバムの1曲目を弾いた記憶があります。
結果として入門を許され、この後O先生の教室に6年生の終わりごろまでお世話になりました。
これもあとでわかったことですが、入門時の面接は実は形だけで、特に選考はしていなかったそうです。
O先生に習った3年間は印象が強く、思い出がたくさんあります。
グランドピアノでレッスンを受けるようになったこと。アップライトとのタッチの違いを初めて意識しました。
ソルフェージュの聴音をやったこと。独特な音譜の描き方を覚えました。
あと、発表会がユニークで、第一部は普通のソロの演奏、第二部で合奏や自作の変奏曲を披露するなどの趣向がありました。
発表会の変奏曲づくりでは採譜もしました。秋の発表会に向けて、小5の夏休みに曲を作っていた記憶があります。
たまに”勉強会”があり、入門の日から気になっていたチェンバロの音を聴く機会もありました。
O先生のお弟子さんは才能豊かな人が多く、結果的に音楽を仕事にした方も何人かいました。
私は当時高校生だったIさんの大ファンでした。Iさんはのちに、藝大に進まれたと聞いています。
Iさんが発表会で弾いたショパンの幻想即興曲やスケルツォ2番は、そのまま私の憧れの曲になりました。
また、誰が弾いたか覚えていませんが、発表会でバッハのイタリア協奏曲(第1楽章、第3楽章)を聴き、メロディが頭にこびりついて離れなくなりました。
いろいろな曲を聴けるのも発表会の楽しみの一つでした。
楽しく通っていたのですが、小学校卒業後、また教室を変わることになりました。
同じ時期に数人辞めた人がいたので、なにか大人の事情があったのかもしれません。
私自身はO先生の教室に不満はなかったので、内心不本意でした。
しかし、このときはピアノに口を出したことのなかった父まで「辞めなさい」と言い始め、抵抗することができませんでした。